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「無い」ことを証明するのは無理ですが「限りなく無に近い」となら断言できます

明確に証明できない限り

それは無いに等しい

死後の世界など在りません

死後の世界とは

死後の世界は場所がない

人間は死んで肉体は滅んでも魂は残り死後の世界に行けるという思想があります。仏教で言う極楽浄土とか、キリスト教でいう天国とか、神道なら黄泉の国とか、まあ世界中でいろいろな呼び名や考え方がありますが、とにかく人は死んでも死後の世界が待っていると考えている人は非常に多いと思います。死後の世界を否定する人よりも圧倒的に多数ではないでしょうか。

しかし、本当に死後の世界はあるのでしょうか。
もちろん、ここでも「死後の世界が無いことを証明する」=「悪魔の証明」ですから、それはできませんが、理屈から言って「死後の世界はありえない」ことは断言してもよいでしょう。では具体的にその理由を述べましょう。


そもそも死後の世界が存在する場所がないのです

死後の世界は場所がない

昔から人は死後の世界が有るとすればどこに有るかを想像して来ました。

キリスト教の天国は当然空の上ですよね。英語のheaven and earth(天地)という言葉が空の上の天国と地上の人間世界を指していることからもよく解ります。空の上になにがあるかよく知らなかった、つまり科学的な知識が無い時代であればそう考えても当然だったでしょう。しかし今は、空の上にはとんでもなく広い宇宙空間が広がっているだけなのは宇宙船からの映像で世界中のだれもが確認しています。

仏教(浄土教)でいう極楽浄土は西方十万憶土の彼方にあると信じられていました。つまりどんどん西に向かって進めば極楽浄土にたどり着けるということで西に向かって船出する補陀落渡海をおこなう僧侶も出たりしました。これも地球が平坦だと考えられていた時代の産物で、今なら真西に向かってどんどん進めば出発点に帰って来てしまうことぐらい小学生でも知っています。

中国の詩人白楽天の長恨歌では、玄宗皇帝の意を汲んだ方士が亡くなった楊貴妃を探しに出かけるくだりがあります。「天に昇り地に入て之を求むること遍し上は碧落を窮め下は黄泉両処茫茫として皆見えず忽聞く海上に仙山有るを」ということで、空の上から地下の隅々まで探したが姿が見えなかったが海上にある仙人の山でついに亡くなった楊貴妃を発見したことになっています。その当時は居住地の空の上や地下よりも海の彼方のほうが死後の世界というものを想像しやすかったのかもしれません。しかし現在、世界中のどの海にもそんな場所が無いことはだれもが知っています。

科学的な知識が乏しかった時代には、どこかに死後の世界が有るだろうと考えていたとしても不思議は無いのですが、今では具体的な存在場所がないことは疑うことができない事実です。
しかし、それでも死後の世界があると考えたい人が根拠とするのは、それは「物質的空間」ではなく「精神的空間」なのだとの主張です。
わたしには精神的空間などという概念は全く想像できないのですが、そんなものを持ち出せば「科学なんぞは糞食らえで、とにかくこの世はなんでもあり」ということになってしまいます。
精神的空間という物の中で行われる物事は、寝ているときに見る夢と同じ質のものであり、「昨夜は私の精神的空間で10年前に死んだ親に会ってきた」という人に対して「いやいやそんなはずがない」と議論したところでなんの意味ももちませんので。

しかし、そこで引き下がってしまうと精神空間論を認めたと勘違いされて悔しい思いをしなくてななりませんので、仮に精神空間というものがあるとしても死後の世界というものは無いという理由をお話しましょう。

死後の世界に行ける者の線引きは無理

さて、百歩譲って、精神的空間というものがあるとして、そこに行けるのは誰でしょう?
特定の資格をもった人間だけでしょうか。例えば死後の世界を信ずる人だけとか。(そうなると私は無理ですが)

それとも、人間全てが死後の世界にいけるのでしょうか。ペットはだめでしょうか。三途の川の向こうで昔飼っていた犬が出迎えてくれたという人の話は嘘でしょうか本当でしょうか。犬がOKなら猫だって鳥だって良いことになりますし、それなら生き物全ても対象にしてもらわなくてはならなくなります。じゃあ、虫にだって植物にだってミジンコにだって死後の世界は有るのでしょうか。

いやいや人間だけだよという人もいるでしょう。じゃあこれまで何億年何万年とかかって人間に進化してきた途中の、たとえば北京原人やネアンデルタール人やクロマニヨン人はどうでしょう。第一、その遥か以前の恐竜時代に生きていた人類の祖先はどうやらネズミのような哺乳類だったようですよ。 このように時系列的にも生物の分類的にも死後の世界に行ける切符を手渡す相手に線引などはできないのです。(まさか、西暦0年を境とするなんて言い出すわけにもいきませんでしょう)

線引などできないとすれば、自分が死後の世界に行ったときには過去から現在に至るありとあらゆる生命の残骸(敢えてそう呼びますが)で身動きできないぐらい詰まった、ラッシュアワーの地下鉄どころではない混沌とした世界だといえますね。

生まれ変わりという都合の良い発想もある問題に突き当たります

先程述べたように、一度死後の世界というものを論理的に考え始めると、だれもがその混雑ぶりを想像できてしまいます。そこで、死後の世界に収容できる魂の数は有限であって、それが生まれ変わってこの世とあの世を行き来しているという、所謂「生まれ変わり」という発想が起こります。
この考え方であれば過去の残骸が蓄積することはないので、ある程度の(といってもかなり広大な精神的)スペースが有れば足りるわけで、死後の世界を肯定するとすれば自然と行き着く考え方だと思います。

死後の世界は場所がない
ただ、生まれ変わりを肯定するとなると、「では魂の総数はいくらなのか」という問題にぶち当たります。死んだ魂が生まれ変わるのですから、魂の数は一定のはずです。しかし、そうなると2つの疑問が生じます。一つは始めの魂はどこから生まれたのかという疑問です。まあこれは、宇宙はどうして始まったのかという問題と同じで「とにかく始まったのだ」ということにしておきましょう。もう一つの疑問というのが、実は魂の総数はかなり増減を繰り返しているのではないかというものです。

地球上の生物の総数は何億年前と現在では比べ物にならないほど増加しています。人口だけでも1950年に25億人だったのが2050年には100億人になるだろうと言われています。やはり魂の数は年々増えていると考えざるを得ないわけです。

いやいや、人間が増えているのはその分だけ他の生物が減っていて、その魂が人として生まれ変わったのだという反論があるかもしれません。しかし、あの恐竜が絶滅したという隕石衝突時には地球上の生物の7割が死んだと言われています。その7割はまた生まれ変わらなければならないのですが、どこから生まれればよいのでしょう。生まれる元(親)がないのですから、そのときには魂の総数もかなり減少したに違いありません。となれば、だれか(神様と呼ぼれる存在でしょうが)がその数をうまい具合に調整していることになりますが、それならば魂はやはり増減していることになります。

魂が増減しているなら、魂自体が生死を繰り返していることになります。「人間は死んでも魂は残るが、魂も死ぬことがある」というのでは、話の辻褄が合わないのは明白ですね。

生まれ変わりエピソードで時空を超越した話が無い理由

ところが、実際に「生まれ変わり」だと思われているエピソードは数多く存在しています。例えば300年前にインドの商人だった魂が現代のブラジルに生まれ変わっているとか、私は天草四郎の生まれ変わりだとかの話は枚挙にいとまがないほどあります。
たしかに私には全く理解できない精神的空間であれば、時間も場所も超越しているのでしょう。 紀元前のエジプト人が現代に生まれ変わってその当時の事を喋りだしたなどというのがあっても不思議ではありません。

しかし、時間も場所も超越しているなら、「私はテラノザウルスの生まれ変わりで、その当時は・・・」という話や、「私は10万年前に死んだアンドロメダ星雲の〇〇星人の生まれ変わりで、そのときには・・・」などというのが出てきてもいいはずなのです。(そのときにはテラノザウルスや〇〇星人が何語で話すのか、とても興味深いものがありますが。)

これまでの生まれ変わりエピソードは、いずれも人間の頭の中で考えつく範囲(つまり夢で見ることができる範囲)や、調べたらわかる事実をベースにしている作り話の域を超えるようなものはありません。わたしには先に挙げたような(時空を超越するような)突飛なエピソードが無いこと自体が、そんなものはないという証であるような気がしています。

宇宙に存在する100兆もの異星人にも死後の世界があることに

私は「UFO」の項で、我々の住む天の川銀河には少なく見積もっても1,000個の星に異星人が住んでおり、全宇宙には100兆もの異星人が地球と同レベル以上の文明を持っているだろうと述べました。
なにも宇宙の中で地球だけが特別の星ではありません。それならば全宇宙には100兆もの死後の世界があるのか、それとも全てを統括する巨大な死後の世界が存在するのでしょうか。時空を超越するというのなら当然後者であるべきでしょう。
もし、本当に死後の世界があるのなら、そこには「100兆×その星の魂数」が存在することになってしまいます。そんな世界がありえないことはこの途方も無い数からも明白でしょう。

死後の世界が存在する確実な証拠はこれまでなに一つありません

そして最後に、「存在しないことを証明することはできないが、存在することを証明するならただ一つの確実な証拠さえあればよい」のに、それが一つも無いということ自体が「無いことの証明」だということを言いたいのです。
例えば数多く有る「生まれ変わり事例」のうち、一つでも本当に生まれ変わりを証明できる事例さえあればそれで良いのに、どの事例もあやふやなで曖昧なものばかりです。

これまでの生まれ変わり事例では、本人が勝手に話した内容を、聞いた人ができるだけ事実と照合しようと努力して、その内容がわずかにかすった程度でもそれを証拠として挙げているものがほとんどです。
「私は過去世で川の近くに住んでいた」とか「子供の頃にタバコ好きのおじさんによく遊んでもらった」とかいう非常に曖昧な事柄で、その程度なら何割かの確率であてはまるものばかりです。すこしぐらい違ったことを言っても、だれもその人がタバコ好きのおじさんに遊んでもらわなかった事を証明(悪魔の証明ですから)することはできないわけですから、当たっている事だけを取り上げるので、さも事実のように聞こえてしまうのです。

死後の世界は場所がない3
そうではなくて、もっと客観的に(たった一つで良いので)科学的に証明されるべきです。
こんな方法はどうでしょう。ある人が死んだあとでも魂は残りその後しばらくして同じ日本に生まれかわったという話をしたとしましょう。そして前世の記憶が残っていると主張するなら、絶対に本人にしかわからない事を話してくれるだけで良いのです。まずその人に質問する人を無作為抽出で10人選びます。その10人が各々「本人しかわからないはずの質問」を一つずつします。例えば「小学校6年の担任は」「母親の旧姓は」「パソコンのパスワードは」「いつも飲んでいた好きなお酒の銘柄は」等々。そんなふうに質問して7割以上正解すればかなり信憑性は高いと思います。いくつかは忘れることも有るでしょうから。(しかし予め徹底的に対象人物についての調査を行っておけばある程度の正解率は得られるでしょうから、質問内容に科学的な吟味は必要ですが)

このように、たった一つでよいので、確実に生まれ変わりを証明できる事例があれば私もそれを信ずることができるのですが、それがない限り死後の世界はないと断言せざるを得ません。


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