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「無い」ことを証明するのは無理ですが「限りなく無に近い」となら断言できます

明確に証明できない限り

それは無いに等しい

神仏は実在しない

絶対者としての神仏

神仏は実在しない

神仏というと、神は神道、仏は仏教、合わせて神仏混淆とか神仏習合とかいう話になって紛らわしいのですが、ここでは「神様仏様稲尾様」や「神も仏もないものか」とか「神仏の御加護を」という時に使う「とにかく信仰の対象となる最上位のもの」という意味で使います。英語なら「オーマイゴッド」のGod、ギリシャならゼウス、マグマ大使ならアースというところでしょうか。
まあ、とにかくそういう絶対者を神仏と呼ぶことにして、本当に神仏は存在するのかという話です。 私の答えはやっぱり「否」。


そもそも神仏とは

もともと人類は長い間、「それが何かは判らないがとにかく不思議な物や出来事」について、それは何なのか、なぜ起こるのか、どうしたら良いのか等について、その時々の必要に迫られていろいろと考えてきました。しかし、いくら考えて見たところでその時点では判らないことが多かったでしょうから、そういうものは全て神仏という絶対者のせいにして、それが良いことなら長続きするように、それが悪いことなら無くしてくれるように祈ったことでしょう。

神仏への祈り

ですから、特にこの日本には判らないことの数だけ神仏が作られてきましたし、もちろん世界中にはありとあらゆる神が名前や姿や特徴は異なりますが無数といってよいほど存在しています。

では、現代のように、科学や文明が発達して世の中から判らないことが少しずつ減ってきているのなら、昔作られた神仏も少しずつ減ってきているかというとそうでもありません。依然として信仰対象としてそれらの神仏は残り続けています。

例えば、全国のどこにでもある天満宮はご存知のように菅原道真の祟り(落雷や疫病の蔓延)を恐れた当時の人が鎮魂のために神様として祀ったものですね。今ではどんなに落雷が激しかろうが気象庁の会見で「昨日は爆弾低気圧が発生して各地で落雷が相次ぎましたが今日からはしばらく晴天が続きます」で終わり、新型コロナ肺炎でも「ワクチンができるまではなんとか三密を避けて拡大を防ぎましょう」で終わり、だれも「あれは田中角栄の祟りだから角栄神社を作ってお祀りしよう」などとは言い出しません。しかし現在、「祟りを畏れて天満宮を作ったのはどうも間違いだったようだからもう廃止しましょう」などとは誰も言わないし、却って学問の神様として益々繁栄しています。このように神仏というものは作るに安く廃止するには難いものですから、どんどん増えていく一方です。
人間に「なにかのせいにしたい」「なにかにすがりたい頼りたい」という気持ちがある限り、神仏への信仰というものはなくならないようですね。

天満宮

この信仰の対象として「神仏は存在する」という現実について、なにもこれをどうこう言うつもりはありません。
神仏を信ずることがその人の幸せにつながるのなら、それはそれで素晴らしいことだからです。
しかし、神仏の存在を信ずることが人を不幸にすることもあります。
オウム真理教事件や霊感商法事件、カルト教団の集団自殺事件などはその一例でしょう。
そういう不幸な事件を引き起こさない為にも、「本当は神仏なんて存在しない」という意見を主張したいと思います。

どうして世の中には理不尽なことが多いのか

さて、私が神仏は存在しないという一番大きな理由は「存在するとすれば理不尽なことが多すぎる」ことにあります。

誰にも愛される人柄でいつも正しい行いを心がけていても若くして不治の病に侵されて死んでいく人もあれば、悪逆非道の限りをつくし心ある人たちには毛嫌いされながらも健康や金運には恵まれて本人は幸せを感じながら長生きをする人もいます。世界には未だに飢餓や疫病に苦しんでいる人々が何億人もいます。その反面、食べすぎで肥満している人も何億人もいます。本当に神仏があるのだとしたら、どうしてこのような理不尽なことが起こるのでしょう。

病気や飢餓で苦しんでいる人たちは信仰する神を持たないのでしょうか、いいえ、その人たちにも信仰する神はあるはずです。では飢餓地域の神の力が肥満地域の神に劣るためでしょうか。そんな簡単なことなら信仰する神を乗り換えればすむことです。
みんなが同じ神を信仰したとしても、このような格差や理不尽は無くならないことでしょう。これが、神仏はいないと思う一番の理由です。

どうしてこれほど多種多様な神がいるのか

多種多様な神仏

本当に神仏というものがあるのなら、その力に当然差もあるでしょうし、格式や順位というものもあるでしょう。神仏の順位があるなら、その中で絶対最高位のものがあるはずです。であれば、だれもがその絶対最高位の神仏を信仰すればよいはずなのに現実はそうではありません。これはどう考えてもおかしなことです。
阿弥陀如来と釈迦如来と大日如来と諏訪大明神と金毘羅大権現と天照大神の中で最高位がだれであるか、これにキリストが加わってもアラーの神が加わってもよいのですが、これが決められないことが、神仏はいないと思う第二の理由です。

なぜ 現実に奇跡を見せてくれないのか

そして、最終的にはこれに尽きるのですが、本当に神仏があるのならなぜ現実に奇跡を見せてくれないのでしょうか。
どの神仏にも必ず奇跡はつきものです。これがあるから信仰の対象にもなるわけで、なにも不思議な力を持たないのなら誰も拝んではくれません。

神仏の奇蹟

由緒あるお寺や神社の縁記には必ず何やら不思議な話が載っています。杖をついたら温泉が湧き出したり、手で触れたら盲目の子の眼が見えるようになったり、モーゼの海渡などは奇跡の典型ですね。
神話や言い伝えや教典ではあれほど奇跡を見せてくれているのに、なぜ今、現実に奇跡を見せてくれないのか。
もし、本当に神仏が存在し不思議な力を持っているのであれば、特に隠す理由もないし、出し惜しみする必要もないし、見せればもっと信者の数も増えるわけですから、堂々と奇蹟を行って見せてくれても良さそうなものですが、これが為されない事こそ神仏は存在しないと考える最大の理由です。

神仏信仰の大元は脳のシステムに原因あり

人の脳というものは、とても都合良くできています。それは人間が生きて行くためにどうしても必要だからそうなっているわけで、中でも私がいつも感心するのは「都合の悪いことは忘れる」ことができる機能です。
嫌なものや汚いものを見た映像、耳障りな音、くさい臭いなどはどんどん忘れていきます。というより、脳が忘れさせてくれるのです。そんな記憶がいつまでも残っていたら美味しく食事をいただくことなんてできませんからね。悲しいことや恥をかいた経験なども、ときには思い出すことはあってもだんだん記憶が薄らいでいきます。
それに反して、楽しいことや嬉しかった経験は長い間記憶に留まります。つまり、人間は悲観的に物事を考えるよりも楽観的に物事を捉えるようにできているのです。
実は、この事が神仏を信仰する、というより、信仰できる大きな要因となっています。

神仏の信仰には必ず願い事が伴います。願い事のない信仰などありません。
神仏への願い事
「どうぞ家族が幸せに暮らせますように」とか「世界人類が平和でありますように」とか「今年は優勝しますように」とか「素敵な人に巡り会えますように」とか「入試に合格しますように」等など。
そして、その願いが叶った場合は「神仏のおかげ」ということで記憶に残ります。願いが叶わなかったときは「信仰心が足りなかった」ということで忘れていきます。
つまり、一度信仰を始めると、神仏というものはとても頼りがいのあるものに思えてしまうのです。
それは中には、理不尽な世の中に腹が立って「神も仏もあるものか」と僧侶や神主や神父に毒づく人もいるでしょうが、たいがいの場合は「あなたの信仰がまだ足りないのです。神仏はあなたを試しておられるのですよ」とすかされることになります。
当たれば神仏のおかげ、当たらなければ本人のせい、これが神仏信仰が無くならない一番大きな原因なのだと思います。


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