サトリ という怪物とか妖怪とかバケモンがいたという
サトリという名前も 覚り なのか 悟り なのか諸説あるようだけど
とにかく人間の考えてることがすぐに判っちゃうという特技を持つバケモン
「わ 怖いバケモンだなあ」と思えば
「お前 今 怖いバケモンだと思っただろ」 とすぐバレる
「こいつからなんとか逃げなきゃ」と思えば
「お前 今 逃げなきゃと思っただろう」 となる
このバケモンは 人間の考えてることが判るんだから
やっつけようとしても すぐにバレて防がれる
ところが 人間が意図しないアクシデントが起きると対処できない
ある話では
木こりがサトリを退治しようとして 何度斧で打ちかかっても逃げられる
こりゃ無理だなと諦めて サトリを無視して木を伐る仕事にとりかかる
すると なにかのはずみで 斧の先が柄から抜けて飛んで行った
さしものサトリもそれを避けることが出来ずに死んでしまった
とか
他にも それに類する話がいろいろある
「悟りを追い求めようとしても 結局それを得ることが出来ないが
追い求める心を離れて無と化せば 自ずから悟りを得られる」
というような事を伝えんがための比喩的物語らしい
さて その悟りのお話
お釈迦さんが悟りを開いたとか覚醒したとか云うでしょ
悟りを開くと如来になれるとか仏さんになれるとか
悟りってなんなんだろう というのがぼくの長年の疑問
どうも 悟りには大悟とか小悟とかがあるらしい
ならば 中悟もあってしかるべきだし 末悟だって欲しい
え おみくじじゃないって? そうだよね
で 結局 悟りってなんなの? ってお坊さんに聞くと
「悟った本人でないと理解できないもの」だとか
「言葉では言い表せないもの」だということになり
さっきのサトリのお話なんかでお茶を濁される
そんな事では
「悟りについて 簡潔に 誰にでも分かるように 一言で述べよ」
という問題が共通一次に出たらどうするんだろう
仏教では 山のように経典があるし その解説本も山のようにある
でも 過去 どれほど勉強した人でも どれほど修行した人でも
悟りを 簡潔に分かり易く表現した人はいない
ということは
それほど難しい問題なのか
はたまた
正解なんて無いんだよ という事なのか
例えば
井の中の蛙が 「おらあ 悟ったべ」と言ったって誰も相手にしない
じゃあ 琵琶湖の鮒が 「おらあ 悟ったべ」と言ったらどうだろう
やっぱり 誰も相手にしないよね
じゃあ太平洋の鯨が言ったとしたら
結局 鯨にしたって蛙にしたって 知りうる範囲については五十歩百歩
お釈迦さんだって孔子さんだって 宇宙全体についてはほとんど知らなかった
彼らは
マチュピチュも富士山も ライオンもチンパンジーも知らなかったし
相対性理論や量子力学は言うに及ばず フレミング左手の法則も知らなかった
ビッグバンもブラックホールも 核融合もips細胞も当然知らなかった
インプットされるものに依ってアウトプットが決まってくるのは
コンピューターでも人間でも同じ
だから
悟りというアウトプットも知識量というインプットに左右されるのは当然
この広大な宇宙全体がもっている情報量から比べたら
現人類の持っている知識量なんて 無いに等しいくらい微々たるもの
だから その程度の知識しか持たずして
果たして「悟った」なんて言えるものだろうか
これまで「悟った悟った」と言った人達の「悟り」と
井の中の蛙くんの「悟り」には 本質的な違いなんて無いのでは
結局 悟りなんてものは
「ぼくはこういう事に気がついだんだぞ」という
「その本人だけが自己満足しているアウトプット」に過ぎないんじゃないかなあ
だから 悟りなんてものは 考えた人の数だけあるし
悟ったからといって 別にどうなるものでもないような気がする
それに人間だけではなくて
ミミズだって
オケラだって アメンボだって
トンボだって カエルだって ミツバチだって
スズメだって
イナゴだって カゲロウだって
もちろん
チワワだって 柴犬だって 紀州犬だって 悟ることはできる
当然 ぼくだって悟っている
「食べて寝て お散歩すれば これぞ極楽」 チ〜ン
日本の3大随筆って知ってる?
方丈記と徒然草と枕草子なんだってさ。
犬の小学校で習ったかな?
で、随筆って何かというと、
とにかくなんでもいいんで、
ダラダラ書いたやつらしい。
それなら・・
てな訳で書いたのがコレ。
細かいことは気にしないでね。
なんてったって犬だから・・
じゃあね ワンワン!